高校で不登校・引きこもりだった女子が、就活を前にこれまでの2回の挫折を振り返る。①

こんにちは。はるです。

 

数年前にstorys.jp(ストーリーズ)に投稿した記事です。

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わたしの過去。何も隠すことはないっす!

 

どぞ!

 

 (当時の下書きをコピペしただけなので、読みやすいのはこちら→https://storys.jp/story/21189

 

 

 

 

 

現在、大学3年生で就活をしているはるです。
わたしはこれまで2回の挫折を味わいました。今日はその挫折から学んだことをまとめていきます。


1度目の挫折は、高校2年生の時でした。


私の入った高校は、県内ではそこそこの偏差値の、いわゆる自称進学校でした。宿題は多いやら、文武両道に力を入れているやら、そんなところでした。中学時代の私は正直に言って、県内1番の高校に余裕で入る頭もあるくらい成績は優秀な人でした。けれど、進学校での「部活動をせずに勉強をしよう」や「学校祭よりも勉強をしよう」、「苦手を切り捨ててできるところだけを伸ばしていこう」という雰囲気が、なんだか鼻高々の天狗さんに見えて好きではなかったのです。もっと地に足ついた、努力と汗にまみれた環境にいたいと思って、兄の通っていた自称進学校に入りました。

入学して半年、担任との二者面談のときに言われました。「入試で10番以内で入った人は、今でもその順位を維持しているのに、はる、お前だけそこにいないぞwどうしたwwなんで勉強しないんだよ~」自分がそんなに学年で上位にいたことも知らなかったし、担任に期待されていたことも知らなかった私はその発言に驚いたのですが、そう、担任が言っているように、高校では勉強をしませんでした。

最初に書いたように、私は高校に”もっと地に足ついた、努力と汗にまみれた環境”を求めていました。私は勉強が好きだったのですが、中学校では勉強を楽しいとしている人が少なく、周りの似たような成績の子たちはみんな「内申点のため」や「好成績を取りたい」という成果や地位を獲得するのが楽しいといった感じでした。進学校向きの考えだったのでしょう。私としては純粋に学ぶことが楽しいと思っていたので、自称進学校であれば「みんなで勉強がんばろう!」「勉強楽しいね!」と言い合えると思っていました。兄や親、中学の先生からもそういった素敵な環境だと言われており、すっかり期待を胸に高校に入学しました。
しかし、現実は、違いました。学校に行けば「勉強なんてやりたくない~」「宿題だるい~」「テストやだ~遊びたい~」ということばかり言うクラスメート、「勉強やりたくないかもしれないけど、今やることがあんたたちの将来のためになるんだから、とりあえず宿題やって!!」と言う先生。(全ての人がそうではなかったものの、)よくある光景だなあ、思っていたものと違うなあ、これじゃあ中学校と同じじゃないかと思いました。学生としては、そうやって友達と一緒にグダグダしていること自体が楽しいという感覚があったのかもしれませんが、私にとっては幻滅の対象でしかありませんでした。
純粋に思ったんです。「こんな人たちと一緒に勉強したくない」って。独学でなんとかなってしまう頭を持っていたからこそ、学校で勉強する意味が分からなくなってしまいました。次第に成績も落ちてやる気も湧かず、上の二者面談にいたります。

”勉強を楽しむ青春”が叶わないと思い知ったかわりに、私は"友達と一緒に過ごす青春"を知りました。正直言って小・中学時代は友達と遊ぶよりも勉強をしている方が楽しいという感覚がありました。小・中学生のときは、お誕生日会やお買い物、地元を自転車でめぐったり、学校帰りに家に招いたりとか、色々な遊びを当時の友達としたりもしていたのですが、やっぱり行動範囲が狭く地元内でのつながりだったので、どこか物足りなさを感じていました。
そこに、電車で1時間かけて通った学区外の高校。知らない町で生活している子と仲良くなり、一緒に帰ったり、遊びにいったり、お昼を食べたてトイレ前で歯磨きをしたり。たわいもない一日を共に過ごすことの幸せを知りました。高校1年生は、私にとっての人生の一番輝かしい青春の日々でした。今でも当時の友達とは毎日連絡を取り、関東⇔東北という遠距離ながらもお泊まりをしたりしています。(素敵な共に感謝)


ああ、自分は無力なんだな...


そして、高校2年生になりました。当時の私は悩んでいたことが2つありました。一つ目が部活動のこと。二つ目がクラスでのこと。
部活動は中学でも行っていた卓球部に入りました。中学校では無法地帯のような卓球部だったので、まともな練習をしたこともなく、からっきし弱い自分でしたが、ただただ卓球が好きでした。高校でも続けて少しでも強くなれたらなあと思い入部しました。そこには他校でエースだった人や県で名前が知られている人など、レベルの高い人から初心者まで様々いましたが、ほとんど中学と同じような無法地帯。強くなるための練習などなく、部活動の時間は決められた時間に決められたことをするという時間でしかありませんでした。勝とう!という雰囲気は、口だけのものでした。まるで、厳しい中学時代の反動のように、そのゆるさを楽しむエースたちの空間ではあったのですが、そんな感覚がチームになりきれるわけもなく、「勝負事になればエースたちだけで勝利を収めてくれるから、試合に出たくないときは出ないし、出ても記念試合」なんてことを当たり前の現実のようにみんなが受け入れていました。
私はそんなみんなが理解できませんでした。本当の仲間って、そういうものじゃないよね?今の状態は馴れ合いなだけだよね?けれど、誰の心にも響きませんでした。
みんなのことが、大好きでした。本当に大好きだったからこそ、心から繋がれないことに辛さを感じました。
ああ、力がなくちゃ何もできないんだ、自分はなんて無力なんだと思い知らされました。


クラスでは、当時私のグループは5人で、1年生の時の人とは離れてしまいました。その5人は、私+A(同じ卓球部のエース)とB(私の1年時の友達と同じ部活仲間であった、隣のクラスだったダンス部)とC(Aと同中で仲良し)とD(Cと仲良し)という形でした。
私+Aが卓球部、Bがダンス部、Cがバレー部、Dが野球部のマネ(中学時代元ソフト部)という、運動部の集まりでした。しかも、私意外の全員がガチな運動をしてきたメンバーでした。なので、どこかそのテンションの高さにもついていけず、まして部活動で悩んでいた私は、Aとの関係にも不満を感じ、次第にこのグループに居にくいなと感じるようになりました。
中学時代などを振り返ると、もとからグループに属すというよりはグループを点々とする、今でいう”無所属女子”だったのですが、高校1年生のときに群れることに慣れてしまったため、一緒にいなければならないという束縛感を勝手に感じていました。
クラス自体が女子が8割という女子高並みの環境だったのもあり、温かい反面、自由にふるまうことができずに面倒なときも多々ありました。

そんなこんなで、学校に行けばクラスで居場所がなく感じ、放課後になれば部活動で居場所がないと感じる、そんな生活が始まりました。

 

誰にも会いたくない


きっかけは些細なことでした。一度寝坊して学校を休んでから、学校に行かないことが増えました。行ったら心配してくれるみんながいるのは分かっていたのですが、その分みんなと一緒にいる時間を楽しめない自分が許せないという罪悪感も感じ、どうしたらいいのか分からなくなっていました。
学校に行かず、だからと言って昼間に家にいるという罪悪感もあり休むこともまともにできない毎日が続きました。友達の連絡にもなんて返したらよいのか分からず、親切にしてくれる人を無下にする自分に自己嫌悪する日々でした。親も次第に私の変化に気付き声をかけてくれましたが、当時の私は親に弱い姿を見せることができない人だったので、親との接点を無くしたく、部屋にこもるようになりました。
ここから、私のひきこもり生活が始まりました。

一年前の青春がまるで嘘だったかのように、毎日が地獄のような日々でした。一日のサイクルとしては、夕方に起き、夜に親が置いてくれた晩御飯を食べ、家族が寝静まった夜中にお風呂に入り、朝になって家族が起きるころに寝る。お風呂以外は部屋から出ずに人との接触を遮断した生活でした。
唯一していたことは、ネットサーフィン。むしろ携帯をいじる以外のことをしていた記憶がありません...(笑)ネットでは、好きな漫画の二次創作を読んだり見たり、イメソンを聴いたり。そうやって、誰かの人生を自分の人生かのように映して考えていたところがあったのでしょう。何度も何度も、同じ話を読み同じ曲を聴いて、辛さを共感して、泣いていました。特に、黒子のバスケで、黒子が中学時代に部活仲間とすれ違い部活を辞めたという経緯に関しては、自分と重なるところが多くあり、よく考えていましたね。
そんな現実逃避を繰り返す毎日。たまに調子が良ければ一か月くらい連続で学校に行くときもあるのですが、寝坊したとか、テスト前に勉強が追い付かなかったとか、些細なことがきっかけでまたひきこもるという生活でした。部屋から出た自分は完璧でなくちゃいけない、いつからかそんな気持ちがありました。「笑顔でいられる時は、学校に行こう」そんな感覚でした。今までみたいにうまく対応できる時は親にその姿を見せることもできる、友達を心配させないで済む、だから、今までの自分を演じよう、って感じ。
でも、現実って厳しいですね。勉強がさっぱり分からなくなりました。当たり前ですね、そりゃあ勉強してないし教わってもいないのですから。高校2年の文系なんてほぼ暗記科目で、もとから暗記が苦手という点もあり、なにもできませんでした。元々理系脳だったところを、1年次に若気の至りで文系を選択しました。そのまま元気な状態であれば文系でもなんなくこなす自信もプライドもありました。けれど、今はそうじゃない。周りの文系のクラスメートよりも私は頭がよかったはずなのに、"暗記科目×引きこもり"という悪環境×悪環境により、クラスではいつもビリ。唯一勉強しなくてもできた数学だけはクラスでもトップの方に居続けましたが、それでも私の自尊心が削られたのは無理もなかったでしょう。

友達ともうまくいかない、本気になった部活動でもチームになれない、そして私のプライドでもあった勉強も落ちこぼれてしまった。出席日数もいつも足りず、長期休みには先生に頭を下げて単位をもらう日々。親も泣く。友達も泣く。先生も泣く。私も泣く。関わる全ての人を泣かせながら生きている意味も分からなくて、もう失うものはないと思いました。


ひきこもっているときは常にうつ状態で、一番にひどい時はベッドの上から一週間動かず、寝ると起きるを繰り返したこともありました。人って、ちゃんとした生活を送らないと、本当に脳が弱るんですよ、これまじで。まず、記憶力が低下して、ほどんど何がいつ起きたかなんてわからないし、今日何してたかもわからないし、覚えていることが夢なのか現実なのかもわからないって状態でした。そして、思考力も低下してました。部屋にいて寒いなあ、どうしようって凍えていたら、窓が開いていたことに1時間後に気付きました。「寒さをどうにかしよう」とも考えなかったし、「なんで寒いのか」も考えてませんでした。そういうものだと無意識に受け入れていた自分がいて、人の頭ってこんなにも変わってしまうものかとゾッとしました。

そんな日々の中、修学旅行や文化祭は張り切ってなんとか乗り越えていき、親が通信制の高校を勧めてきたり、私も大検を検討したり、流されるがままに高校3年の冬になりました。

 


大学に行きたい


もとから勉強が好きだった私は、中学生のころから大学に行って勉強がしたい!という気持ちがありました。それが、高校3年のときには、もう行くことが私の人生かのように、決められたものだと信じ込んでいました。
最終的に受ける大学を決めたのは私立は12月末、国立は1月末でした(締め切りとずれてたらごめんなさい)。そんなこんなで単位が足らないくせにご立派に大学受験をしました。今思えば、受けるだけでもお金はかかるし、労力もかかるし、どれだけの人に支えられていたのでしょうね。
志望大決めは先生と県外で一人暮らしをしている兄に、金銭面はすべて親に、日程やスケジュール管理、受験の流れなどの管理はすべて兄に、そして勉強に関しては、一番苦手だった英語を既に推薦で受験を終えていたAに一緒に勉強するという時間をつくってもらい、やっていました。
本来なら、単位も出席日数も足らなかった私は、学校の方針で退学にさせられる予定でした。卒業は認められない、と校長にも言われました。私と同じ状態の同級生もすでに大検に切り替えて退学していました。それでも、担任やお世話になった先生が、いろんな先生に頭を下げていました。「はるを卒業させてやってください」そう言って、頭を下げていました。それをどこか他人事のように感じながら、私は、素直に、卒業したい、大学に行きたいと思いました。

そのまま、私立は大正大学をセンター受験、専修大学神奈川大学を兄の住んでいる関東圏で宿泊させてもらい地方受験、中央大学を東京に一人で宿泊し本校舎で受験しました。
中央以外は無事に受かりました。さすがに中央は勉強不足もあり、専修も神大も国語の時間に居眠りしてしまいました...(笑)良い意味で昔の勉強にプライドを持てていた自分の感覚を持てていたんだと思います。
そして、国立大学は、高校1年時には千葉大学を狙っていたのですが、引きこもっていた私には雲の上の存在になってしまいました(笑)ただ、当時の私の頭の中には、そのレベルに行かなければ私はダメになってしまう、というような脅迫概念もあり、どうしてもそれ以下の大学に行ったら自分は負けるんだと考えていました。プライドが折れてしまいそうだったんだと思います。その後、何度も何度も先生に説得され、レベルを下げ、現在の福島大学に辿りつきました。最終的な選択肢としては、群馬大学の情報系の学部か福島大学の行政系の学部かになりました。群大は二次が数学だから、福大は二次が小論で難しくないからという理由でした。悩んだ結果、恩師から「お前には、群大に行ってPCの前でカタカタやるのではなく、福大で広い世界を見てきてほしい」という一言で決めました(群大批判ではありません、あくまでも言葉のあやです)。

そんなこんなで、引きこもりだった私は現役で福島大学に合格し、無事大学生になりました。
いつの間に引き込もりでなくなったかとか、正直よくわからないんですけど、たぶん、「受験」という大きなやるべきことが与えられたから、取り組めたんだと思います。そしてそれをこなすことで、新しい環境に移れる、またやり直せるという、目に見えた変化も得られることがきっかけだったのでしょう。


幸せにならなれけばいけないとは、なんと恵まれた義務だろうか。


わたしは、無力でした。だからこそ、大学受験のときに私を無条件で支え頼らせてくれた数多くの人たちの存在が、当たり前ではないことを心から感じることができました。本当に思いました。私は一人で生きているのではないんだな、と。
受験が終わり、高校も卒業したあと、「あれだけ悲しませて迷惑をかけた私を受け入れて、愛して、力を貸してくれた人たちのために、私は何ができるのだろう」と考えるようになりました。

「私が幸せであること」それが私の答えでした。
見返りを求めた行為だったわけではない、無条件に愛を与えてくれた、そんな人たちは私の笑顔を心から喜んでくれていました。だからこそ、無力だからこそ、役に立つこととか相手に貢献することとか、そういう利益を与えるのではなく、まずは、「くれた恩をしっかり受け止めたよ、私はあなたのおかげでしあわせになれたよ」と伝えることなのだと思いました。
それ以降、大学生として生活するうえで、やはりまだ部屋にこもったりうまくいかない時もありましたが、次第に”自分自身を幸せにすること”を優先していくことができるようになりました。
次ページこれが、私の一つ目の挫折、そして学んだことでした。

 

 

つづきます。(こちらでも→https://storys.jp/story/21189

ついったまとめ!

お久しぶりです。はるです。

忘れたくないTweetをいつでもみれるように、まとめました。

 

 

 

 

 

まる。